その青年は悩んでいた。
おそらく端から見れば、自分は、その他大多数の人間に比べれば幸せな部類にはいるのだろうし、確かに自分でもそう思う。
自分にとって一番大切な存在がそばにおり、相手もおそらくはそう思っていてくれる。
少し前までその位置にいた大切な妹は、少し大人になって、彼女にとっての一番の少年と無事に再会した。もちろん彼にとっては不本意きわまりない話であっのだが。
父親も、オカルトのような話ではあるが、長い間感じることすら出来なかった最愛の人を身近に感じることが出来るようになったらしい。
自分も幸せ、自分の大切な周りの人たちも幸せ。これで文句を言ったら罰が当たる。
「ただし…ただしなんだよな。」
彼はそうため息をつくと、自分の一番大切な存在に思いを馳せた。
詳しくは聞いていないが、本来の姿は魔術的な存在あり、人間ですらないらしい。また、妹の守護者でもあるという。
彼の大切な人はその存在の現実での仮の姿ということなのだった。
しかし、そんなことは彼にとって些細な問題だった。
彼自身小さい頃からオカルト的なものは身近な存在だったし、想い人の本体が消えそうになったとき、自分の持っていた魔力とも言うべき魔術的なエネルギーをそっくり譲り渡したりもした。
そう、彼、木之本桃矢の最大の悩みとは、
「別に気にしなけりゃいいことなんだが、人の目から見たら俺とゆきってただのホモなんだよな。」
いみじくも今つぶやいたとおり、想い人、月城雪兎が男であることだった。
そのこと自体に不満はないが、社会的には大いに問題なのだった。
「どうやら、小僧が帰ってきたのが大きなプラスになってるみたいやけど、さくらの魔力も、ここのところ至極安定しているみたいやな。」
おひさまいろのクマともネコともつかない、羽の生えたぬいぐるみと、中学生になったばかりといった雰囲気のショートカットの美少女がベッドの上でおしゃべりをしていた。
「うん、自分でもわかるよ、ケロちゃん。近頃木とか花とかから出てる魔力の流れっていうのかな、そういうのを感じたり出来るようになってきてるんだ。」
少女はそこまで言うと、何かに気付いたように慌てて付け加えた。
「で、でも別に小狼君は、関係ないと思うんだけどな。…ううん、やっぱりちょっとはあるかも。」
一番大事な少年のことを思いだしたのか、ちょっと頬を染めて抱えていた枕に顔をうずめる少女、名前を木之本桜と言い、現在世界で一番強い魔力をうちに秘めている少女だった。
ケロちゃんと呼ばれたぬいぐるみは、腕を組んで肯きながら、
「おお、自然力を感じられるようになっとったんか、さくら。ほな、これからは急な魔力切れをする心配はのうなった訳やな。」
そんなことを言った。今ひとつ理解しづらかったのか、さくらが聞き返した。
「え、それってどういうことなの、ケロちゃん。」
「ちょいと難しい説明になるんやけど、自然力ゆうんは魔力の元みたいなもんでな、どんな存在も、さっきいうた木や花だけでのうて、生きもんとか、その辺の石ころなんかからも出とるものなんや。ま、自然のエネルギーちゅうのが一番近いとこやな。もちろん人間からもぎょうさんでとるもんや。でな、今までのさくらやと、自分が作れる自然力の分しか魔力として利用できへんかったんやけど、これからはさくらが感じることの出来る自然力の分だけ魔力が使えるちゅうことになるんや。そやから前みたいに魔力の使いすぎで眠くておきれん、とかゆう事はもうないちゅうことやな。」
ケロの説明で何となく理解したさくらは、少しの間何かを考えていたようだったが、意を決したように「ん」と気合いを入れると、ケロに問いかけた。
「ねえ、ケロちゃん、それじゃさ、わたしそろそろ『月』（ユエ）さんの事支えるだけの魔力ってあるのかな。」
「おう、なんや唐突やな。ま、確かにあの『月』が消えかかった頃に比べれば問題にならん位魔力は上がっとるし、自然力も感じれるようになったちゅうし、ぼちぼち合格っちゅうとこやな。で、なんでそないな事いきなり考えたんや。」
「…ん、実はね、お兄ちゃんのことちょっと考えちゃって。ほらお兄ちゃん『月』さんに魔力全部あげちゃってから、いつもぼんやりして眠そうだったじゃない。近頃は慣れちゃってるみたいだけど。でね、私が『月』さんを支えられたら、今、『月』さんの中にあるお兄ちゃんの魔力、少しだけでも戻してあげられるかなって思ったの。」
それを聞いたケロは納得したように答えた。
「ああ、にーちゃんの事かいな。あのときはほんまにやばかったんや。そうやな、確かにさくらの魔力で『月』の事支えられる様になるんやったら、少しは返せるかもしれんわな。」
そこまで言ったケロは、少し声のトーンを落としてこう続けた。
「ただわいな、どないして魔力そそぎ込めばええのかわからんのや。わい自身は自力で魔力取り込むようなっとるさかい。そのへん、ちょいと役たたんかもしれんで。」
「それは大丈夫だと思うよ。絶対に知ってる人から聞けばいいと思うから。小狼君が帰ってきたこととかもお手紙に書いて送ろうと思ってたからちょうどいいしね。」
そう言いながら、さくらはしばらく会っていない、父親に似た優しい微笑みの少年の事を思い出していた。
「そや、エリオルとかゆうた、クロウの生まれ変わりの事やな。確かにあいつやったら知らん訳ないわな。」
さくらは大きく肯いて続けた。
「そうだよ、観月先生から貰ったお手紙に時々エリオル君のことが書いてあるから、元気なのは知ってるんだけど、エリオル君本人宛のお手紙って、数えるくらいしか書いてないの。小狼君以外の男の子にお手紙書くの、気が引けちゃってたのもあるんだけど。」
「ほな、善は急げっちゅうことで、早速書いてみたらどないや。」
「うん、そうする。」
そう口に出すと、さくらはベッドの上からぴょんと飛び降り、レターセットを取り出して、今は遠い英国にいる大魔術師の生まれ変わりの少年に送る手紙を書き始めた。
「…という手紙がさくらさんから届いたんですけれど、どうしたものですかね、歌帆。あなたにもよろしくと書いてあるので、意見をお伺いしたいのですが。」
イギリス、ロンドン郊外。そこに見た目の年齢にはふさわしくない居宅を構える少年は、たまたま遊びに来ていた、彼にごく親しい女性にそう語りかけた。
「あなたのことだからもう決めていて覆したりしないと思うから、意見として言わせて貰うとね、さくらちゃんの負担にならないんだったら、とーやに魔力を戻すのは問題ないんじゃないかしら。」
その女性は、ちょっとだけ昔を思い出すような表情で続けた。
「私もとーやの事はよく知っているし、あの子には幸せになって欲しいと思ってるの。あの子いろいろと苦労性なところあるし、きっと今も単純なことで悩んでると思うしね。」
「そういえば歌帆は、以前はさくらさんの兄君とは親しいつき合いをしていたのですよね。それでは歌帆は、彼が何について悩んでいると考えているのですか。」
自分より十以上も年下に見える少年にそう尋ねられた、歌帆と呼ばれる女性はにっこり笑うと、一言の元に言い放った。
「世間体。」
図星を指された桃矢がその時くしゃみをしたかどうかは不明だった。
「それでは私はさくらさんの兄君が世間体を気にする必要が無くなるような解決手段を、さくらさんに教えなければいけませんね。」
柊沢エリオルという名を持つその少年は、いかにも楽しそうな人の悪い笑みを浮かべてそう言った。
「エリオル。あなたが何を考えたのか知らないけど、…とーやも気の毒ね。ま、幸せになれるんだからそのくらいはしょうがないか。」
「そうだね、恐らくびっくりはするだろうね。桃矢君も、あと『月』や仮の姿はともかく、さくらさんとケルベロスも。」
「なんだ、どうなるのかは教えてくれないのね。まあいいわ、知っちゃったらさくらちゃんに教えてしまいそうだからね。」
同じようにちょっといたずらめいた笑みを浮かべて答える歌帆。
その時、玄関の方から不必要なほどテンションの高い声が響いてきた。
「たっだいま〜、今日もばっちり稼いで来ちゃいました。」
「ルビー、もうちょっと静かに帰れないのですか。」
「いやん、この姿の時は奈久留ちゃんって呼んでよ、すっぴー。」
「…誰がすっぴーですか。」
「おかえりなさい、二人とも。」
そう言ってエリオルは騒がしい二人を迎えた。正確には少女の格好をした少年と、蝶の羽の生えた黒猫の一人と一匹だった。
「ただいまーエリオル。あら、歌帆も来てたのね。」
「おかえりなさい、奈久留ちゃん。どうやらお仕事は楽しそうね。」
「うん、日本でとーや君がいろんなバイトをしてるの見て、勤労意欲ってゆーのに目覚めちゃったのかしら。」
「…お目付役についていく私にはいい迷惑ですがね。」
ぐちを言う黒猫を歌帆がなだめた。
「ごめんなさいね、スピネル。こんど日本から送ってきたわさびあられの大袋、おみやげに持ってきてあげるから、それで勘弁して。」
「まあ、エリオルと歌帆の頼みでは断れませんしね。」
まんざら不満でもなさそうな口調でそう言ったスピネルは、エリオルの足下にうずくまった。
「とーや君か、もうずっとあって無いな。なにやってるのかしら。」
そう言いながらソファーに沈み込む奈久留。
「その桃矢君の妹のさくらさんから、手紙が届いてますよ、あなた方も読みますか。私はさくらさんに返事を書いてしまわないといけないので、ちょっと書斎に行きますが。」
「わー、読む読む。」
そう言ってテーブルの上の手紙に手を伸ばす奈久留。歌帆はそれを見つつエリオルに声を掛けた。
「それじゃさくらちゃんへの手紙には私がよろしく言っていたって書いておいてね。また近々来るわ。」
二人と一匹を残して屋敷を出た歌帆は心の中でこう呟いた。
「私はこっちで幸せだから、あなたも幸せになってね、とーや。」
「それでは、エリオル君からのお返事が来たんですの、さくらちゃん。」
友枝中学校の廊下で、さくらは一番の親友にイギリスから手紙の返事が来たことを告げていた。
「うん、知世ちゃん。エリオル君ね、私がケロちゃんと『月』さんを大切に思ってくれてとても嬉しいって。」
「それで、具体的にはどのようなことをなさいますの。」
知世と呼ばれた長い黒髪の少女がさくらに聞き返した。
「手紙によると、一回だけ『月』さんとわたしの間に魔力の回路を開く儀式をやって、あとはわたしの魔力が増えると、それに応じてどんどん『月』さんに送る魔力の量が増えていくんだって。その魔力の量に応じて、『月』さんが使っているお兄ちゃんの魔力を返しても大丈夫になるんだって。」
「それじゃさくらちゃんは、もっと魔力を増やせるように頑張らないといけませんわね。」
そこまで言うと知世はきらきらした目をさくらに向けてこう続けた。
「それと儀式の時には絶対に呼んで下さいね。最近さくらちゃんに衣装を着ていただく機会がなかったので、こーんなにたまってるんですの。儀式の時は選りすぐりのを持っていきますから。ああ、ビデオカメラも４台ぐらい用意しないと。」
うっとりとした表情の知世を見ながら、さくらは、
『知世ちゃんのこの趣味だけは全然かわんないなー。』
と考えていた。
「そういえば、『月』さんからお兄さまへ魔力をお返しするのはどうなさるんですの。」
我に返った知世が改めてさくらに尋ねた。
「うーんとね、それは『月』さんが知ってるから、わたしが気にしなくてもちゃんとお兄ちゃんに返せる、ってエリオル君は書いてきたよ。」
「それでは心配することはないのですね。さくらちゃん、当日はもちろん李君も呼ばれるのですわよね。」
「うん、事がカードがらみのことだし、やっぱりそばにいてくれると心強いから…。」
大好きな少年のことに話を振られて、少し照れながら、それでもはっきりと言いきるさくら。
そんなさくらのことを、優しい目で見つめ続けている知世だった。
木之本家、朝。
「ねえ、お兄ちゃん、雪兎さんって今度家にくるのいつ頃かな。」
朝食の盛りつけをすませた桃矢にさくらが問いかけた。
「ああ、ゆきか。呼べば今日にだって来ると思うけど、なんかゆきに用でもあるのか。」
「うん、ちょっと雪兎さんとお話ししたいことがあるの。」
さくらは桃矢が大体の事情を知っているのに気づいてはいたが、まだ魔術関係のことを面と向かっては話していなかったので、いきおいケロと『月』のことについては隠す形になっていた。
桃矢もそれを察して、あえてそのことについては追求せず、
「また食事で釣るってのも何だし、じゃ、おまえの都合のいいときに家にくるように話しとくよ。で、いつがいいんだ。」
と、話を流した。
「それじゃ、明日の午後家に来てもらえるとうれしい。」
「わかった、明日だな。ゆきにはそう伝えとく。それよりさくら、あんまりゆっくりしてるとまた遅刻するぞ。」
桃矢は、台所の時計を見てそう忠告した。
「ほえぇ、もうこんな時間。お兄ちゃんがのんびりしてるから、まだ時間あると思ってたよ。」
あわてて残りのパンを口に押し込み、ホットミルクで流し込むさくら。
そんなさくらを見ながら、変わらないやつだなとほほえましく思いながらも、桃矢はあえて意地悪く言い放った。
「残念だけど、大学生の俺は今日１限に授業がないんだよ。でも中学生はそろそろ間にあわねーんじゃないのか。」
「ほえーっ、お兄ちゃんの意地悪。それじゃいってきまーす。」
さすがのさくらも中学生になってからはインラインスケートで通学はしていなかった。
黒のローファーを履いてパタパタと走っていくさくらを見送ると、桃矢は朝食の片づけを始めた。
ちなみに父親の藤隆氏は、出張中のようだった。
「おう、ゆき。こっちにいたのか。ちょっと探しちまったぜ。」
「あ、とーや、どうしたんだい。」
学内のカフェテリアで食事をしている雪兎を捕まえた桃矢に、にこにこと楽しげな笑みを浮かべながら雪兎は問い返した。
「明日なんだけど、おまえ空いてるか。」
「明日？、別に何も用事入れてないけど、何。」
「ああ、さくらが何かおまえに話があるんだとさ。だから昼過ぎに家に来てくんねーか。オレはバイトがあってその時間家にはいないけどな。」
「さくらちゃんが？、うーん何だろうね。わかったよ、昼過ぎだね。」
雪兎は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに元のにこにこ顔に戻り、了承した。
そんなことをしゃべりつつ、目の前で３皿目の料理に手を出した雪兎を見て、桃矢はつい尋ねた。
「それにしてもゆき、おまえ相変わらずの食欲だな。朝も食ってきてるんだろ。」
「これでも高校の頃に比べたら半分以下なんだけどね。あ、とーやも何か食べる？」
「…いや、俺はコーヒーだけにしとくよ。」
桃矢は雪兎の前に並んだ皿の数に、げっそりしながら辞退した。
その一見華奢な体のどこにこの食事が消えていくのだろうと、改めて雪兎の姿を眺める桃矢だった。
女顔とまでは言わないが、整った顔立ち。何となく自分の父親にも似ているように見える。身長は自分の肩より少し上、まあ、成人男性としてはやや小柄な方だ。体型はさっきも言ったとおり華奢な方だ。
雪兎はそんな桃矢の視線に気付くと、
「何、とーや。ぼくのことじーっと見て。もしかしてほっぺたにご飯粒でもついてるのかな。」
にこにこと天然でボケをかました。
「いや、ただ眺めてただけだ。いつからおまえのことがこんなに大事になったのかなって、漠然と考えながらな。」
桃矢のその台詞を聞いた雪兎は、ふと考えるように視線を空中に飛ばし、こう言った。
「ぼくはね、とーや。出会ったときからずっと好きだったんだと思うけど、それを自覚したのはぼくが人間じゃない事をとーやが知ってたって教えてくれたあの日からだよ。」
あの日。
桃矢は改めてそのときのことを思い出していた。
雪兎にそのことを告白した瞬間、彼の姿は白い翼を持つ青年の姿に変わった。
翼の彼は『月』と名乗り、自分が雪兎の本体だと言った。そして彼と約束を交わし、自分が内に秘めていた魔力、自分にとっては人に在らざるものを身近に感じる力を、雪兎の存在のために全て譲り渡した。
あのときから２年近くが過ぎた。魔力のない生活にももう慣れた。勘は鈍くなったが大した問題ではないし、何よりも今、自分のそばには雪兎がいることが幸せなのだった。
「俺はきっと最初からだな。おまえがそうやって幸せそうににこにこと飯を食ってる姿を見てると、なんだか気持ちが和むんだよ。」
「うーん、そういうものなのかな。それじゃぼくは、これからもとーやの精神安定剤って事で。」
「ああそうだな、そうしてくれると俺もうれしいぜ。あ、俺はこれから講義だからまた明日な。ゆきに限ってはそんなこともないだろうが、食べ過ぎんなよ。」
そう言うと桃矢は雪兎に片手をあげると校舎の方へ急いだ。
走り去っていく桃矢の後ろ姿を見ながら、雪兎は考えていた。
「とーや、本当のことを言うとぼくだって少し不安なんだよ。ぼくの存在はとーやのおかげで支えられているのに、ぼくはとーやに何一つ返していないような気がして。近頃は高校の頃みたいにいつでも側にいるわけじゃないし、こんなに全人格的に寄りかかっていていいのかなって、そう思うこともあるんだ。ぼくの本当の姿の『月』はぼくのことをふがいなく思っているのかもな。」
そんな不安げな気持ちを振り切るように、雪兎はまだ目の前に残っている食事に挑み始めた。
「で、さくらちゃん、ぼくに何の用なのかな。」
翌日の午後、さくらの部屋に通された雪兎は、緊張した面もちのさくらにそう尋ねた。
「あ、あの、まずはお礼を言おうと思って。ずっと前に小狼君が香港に帰っちゃうって時に私のことを励ましてくれましたよね。」
「うん、覚えてるよ。」
「あのときはほんとにありがとうございました。この間、小狼君が日本に戻ってきたんです。これからはずっとこっちにいてくれるって。それで、小狼君がいない間頑張れたのは、あのときに励ましてくれたみんなのおかげかなって思って、みんなにお礼を言おうって考えたんです。」
「ぼくは、さくらちゃんが強い子だって信じてたからね。あのときはそう思ったからそのことを言っただけで、頑張れたのはさくらちゃん自身の強さだよ。でも、李くんが戻ってきてほんとによかったね。」
雪兎は笑顔でそう語りかけた。
「あの…。」
さくらは本題を切り出そうと口を開きかけた。その瞬間、雪兎の周りに風が渦巻き、その姿を『月』のものに変えた。
「ほえーっ、ゆ、『月』さん、何でいきなり。」
突然のことに心の準備が出来ていなかったさくらは驚いて叫んだ。
「主が私に会うことを欲したからだが？。別に問題ないことだ。それで、何か私に用があるわけだろう。」
『月』は、どうしてそんなことに驚くのか判らない、という表情をしていた。
さくらは深呼吸して気持ちを落ち着けると話し始めた。
「あのね、『月』さん前に、わたしの魔力では存在が支えられなくて、お兄ちゃんの魔力を使ったでしょう。」
「ああ。主の兄には感謝している。仮の姿にもよくしてくれているしな。」
「それで、私の魔力が高まってきたから、少しずつ私の魔力で『月』さんを支えるようにしようと思ったの。そうするとお兄ちゃんの魔力を使わなくても大丈夫になると思うから、その分をお兄ちゃんに返したいの。」
さくらがそこまで言うと、『月』はさくらをじっと眺めて言った。
「確かに主の魔力は私を支えるのに足るレベルになっているようだな。まあその方が私も主の異変を早く感じられる様になるし、良いと思うぞ。」
「じゃあ、儀式を行ってかまわないんですね。あと、エリオル君から魔力回路を開く方法は教えてもらったんだけど、お兄ちゃんに魔力を返す方法は『月』さんが知っているはずだって教わってないんです。『月』さん知ってますよね。」
『月』はそれを聞くと、苦笑いともとれるような笑みを浮かべて、
「ああ、知っているとも。実際には仮の姿の方が行うことになるだろうがな。」
と言った。
「雪兎さんがやるんですか？。でもちゃんと戻せるのなら大丈夫ですよね。」
さくらはそう言うと、気がついたように付け加えた。
「あ、『月』さん、儀式の用意ができるまでちょっと待っててもらえますか。」
「では仮の姿に戻った方がよいだろうな。私は呼んでもらえればいつでも現れる。」
そう言うと、『月』は風をまとい雪兎の姿に戻った。
雪兎は何もなかったかのように、さくらに向かって言った。
「さくらちゃん、お話はそれだけかな。」
「はい、でももうじきお兄ちゃん帰ってきますし、もう少し家で待っててもらえますか。」
「うん、それじゃもうちょっとお邪魔さてもらうね。ぼくはとーやの部屋にいるから、何かあったら声をかけてね。」
「はい。」
部屋を出る雪兎を見送ると、さくらは知世と小狼に電話をかけた。
「さくらちゃんやっぱり素敵ですわー。」
感極まった様子で知世がつぶやく。
「さくらのそないなかっこ見るのも、久しぶりやな。」
ケロも腕を組んでうなずく。
「う、うん。オレも似合ってると…思う。」
少し照れたような様子で、小狼も衣装をほめる。
知世がためにためた衣装の中から選りすぐって持ってきたものなのだから当然といえば当然なのだったが、さくらの衣装は今までのもの以上に豪華なものだった。
「なんか、久しぶりに派手な衣装を着たから、ちょっと恥ずかしいよ。」
「久しぶりのさくらちゃんの勇姿ですもの、このくらいでぴったりですわ。」
「ほな、さくら、『月』を呼ぶで。呪文の方はばっちりやろな。」
「うん大丈夫、全部覚えてるよ。」
そう言うとさくらは、心の中で『月』に強く呼びかけた。
「『月』さん、さくらです。これから儀式をやります。」
程なく部屋には、やってきた『月』の姿があった。
「それでは始めてくれ。」
そう言うと『月』は、さくらの前に膝を折り頭を下げた。
「星の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ。契約の元さくらが命ずる。封印解除（レリーズ）」
さくらは呪文を唱え、星の鍵を杖の姿に戻した。そしてその杖を『月』の頭の上にかざし、さらに呪文を続けた。
「汝、カードの守護者たる『月』よ。古き力の戒めを解き、契約者たる我さくらとの間に、新たなる力の道を開け。想いは力となり、力は変化をもたらす。我が想い汝のものなり、我が力汝のものなり、汝の全て我のものなり。契約の元さくらが命ずる。魔力接続（コネクト）」
さくらから放たれた淡い光が、杖を通して『月』の体を包みこむように見えた。それは魔力を持たない知世にも感じられるほどの圧倒的な魔力の流れだった。二人と一匹が見守る中、さくらは精神を集中して魔力の流れを支え続けた。
しばらく経って、光が薄れ、消えた頃になって始めてケロが口を開いた。
「ええでさくら、儀式は成功や。よう頑張ったな。」
「そのようだな、人から常に魔力が流れ込んでくるのも久しぶりだ、そう、クロウが姿を消したとき以来か。それにしても主よ、ずいぶん魔力が高まったものだな。」
「自分じゃわからないんだけど、ケロちゃんも言ってたし、そうなのかな。」
「ああ、これなら一月くらいあれば私の存在を全て支えられるようになるかもしれないな。」
「うん、私ももっと魔力を高めるように頑張るよ。でも今はちょっと疲れちゃったな。」
「魔力の道はつながったし、もう休んでも良いと思うのだが。そうだな、主の兄へ魔力を返すのは私が行うので安心していて良いぞ。もちろん返すのは主の兄が受け取りに承諾してからだが。」
「え、『月』さん、それってどういう意味ですか。」
「つまり、私の方がいくら魔力を渡そうとしても、主の兄がそれを受け入れなければ、魔力を返すことができないということだ。魔法とは突き詰めて言えば契約だからな。」
「そうか、魔力ってそういうものなんですね。そういえば、雪兎さんはどうなるんですか。」
さくらは『月』に、ずっと気にしていたことを尋ねた。
「そうだな、確実にいえることは食事の量はずっと減るだろうな。あとは私の変化に少しは引きずられるかもしれないが、それは仮の姿の心の持ちよう次第ということか。まあ、私が健在である限り滅多なことは起こらないから、心配することはない。それでは私は、先ほどの部屋に戻ってから仮の姿に戻ろう。仮の姿も一個の独立した人格だ。あまり怪しまれても困るしな。」
そういうと『月』は、風を巻くとその場からかき消すように消えた。それを見たケロは一言、
「『月』のやつ、表情かわらんけど、うれしゅうてしゃあないみたいやな。魔力消費の大きい瞬間移動つこうて隣の部屋もどるくらいやさかいな。」
あきれたような声で、しかし楽しげに言った。
息を詰めて儀式を見守っていた知世と小狼も、やっと大きなため息をついて緊張を解いた。
「何も起こらなくて良かったな、さくら。」
「さくらちゃん素敵でしたわー。」
「うん、無事に終わって良かった。でも魔法でこんなに疲れたのは、カードの最後の２枚を変えたとき以来かな。」
さくらも力つきたように、ベッドの端に腰を下ろした。そのさくらに小狼が問いかけた。
「なあ、さくら。儀式が終わったあとの『月』、何か少し違って見えなかったか。というか、儀式の途中からどんどん変わっていくように見えたんだ。どこがっていう程じゃないんだけどな。」
「え、そうかな。わたし呪文の維持に精一杯で細かく見てないんだけど。でもどんどん『月』さんが近くに来るような感じがしてたよ。」
「それは、『月』の魔力の質が変わったからやと思うで。今の『月』はさくらとにーちゃんとクロウ、３人の魔力で存在しとるよってな。」
ケロは二人の疑問に答えるように解説を加えた。
「『月』は月、つまりほかの光を受けて輝くもんや。当てる光が変われば光り方も変わるっちゅうことやな。ま、本質が変わるわけやなし、気にしてもしゃあないで。」
その時階下から、帰宅した桃矢の声が聞こえてきた。
「ただいまー。さくらー、ゆきのほかに誰かお客さん来てるのか。」
「う、うん。知世ちゃんと小狼君がいるよー。」
階下に返事を返すと、さくらは慌ててコスチュームを着替え始めた。
「ほえー、こんな姿お兄ちゃんに見られたらまたしばらくからかわれちゃうよー。」
「とても可愛らしいのに、残念ですわ。あ、李君にはあちらを向いていていただかないと。」
その台詞を聞いたとたん真っ赤になって慌ててさくらに背を向ける小狼だった。
「お、来てたな、ゆき。」
桃矢は自分の部屋でくつろいでいた雪兎に声をかけた。
「あ、とーや、おかえり。おじゃましてるよ。」
「そういえば、ゆきがこの部屋にいるのも久しぶりだな。ここしばらくは大学でしか会ってなかったし。で、さくらの話は終わったのか。」
桃矢はせおっていた荷物をおくと、ベッドの脇に腰掛けた。
「うん、ぼくにお礼が言いたかったんだって。ほら、李くんが香港に戻る前の日に、熊のぬいぐるみを作っているさくらちゃんを励ましたことがあったよね。」
「ああ、覚えてるよ。あのときはあまりにも思っていたとおりの展開になって、腹を立てる気にもなんなかったけどな。」
「思っていた通りって、どういうこと？」
「あのちょっと前までは、俺はある程度未来視の力があったんだよ。ま、見えるのは大まかなことだけだったし、主にさくらのことしか分かんなかったけどな。その未来視の中で さくらがあのガキのところに行くのに、俺がバイクに乗せていくシチュエーションが見えてたんだよ。」
またそのときのことを思い出したのか、桃矢はほんの少し顔をしかめた。
「そう言うことだったんだね、あの前の日からとーやの機嫌が良くなかったのは。」
「それも理由の一つだってだけだ。で、さくらはゆきになんて礼を言ったんだ？」
「あの後、自分が頑張れたのは、励ましてくれたみんなのおかげだって言ってたよ。さくらちゃんは強い子だね。」
「ああ、オレの妹だしな。」
「そう、大事な大事な、ね。」
「うるせー。ま、今はそれ以上にゆきのことが大事だけどな。」
『自分のことが大事』その言葉を聞いた雪兎の表情が微妙に翳った。雪兎は近頃悩み続けている『自分は桃矢の負担になっているのではないか』という不安を思い出してしまったのだった。
その様子に気付いたのか、桃矢は雪兎に声を掛けようとした。その瞬間、雪兎の体に以前桃矢が経験したことのある変化が起きた。雪兎の体の周囲に風が渦巻き、見事な翼と銀の髪を持った青年の姿が二重写しのように現れ、雪兎の姿と取って代わった。
「主の兄よ、久しぶりにあえたな。」
「あんたは『月』…だったな。あんたが出たと言うことは、さくらに何かあったのか。」
「安心しろ、主にはなにも起こってはいない。今回はお前に用があるのだ。」
桃矢は今ひとつ話の流れをつかむことが出来ず、呆けたように問い返した。
「俺に…か？」
「そうだ、お前にだ。用件は二つある。一つ目は、お前から預かっていた力を少しずつではあるが返すことが出来るようになった。受け取って欲しい。」
「俺の力…確かそれがないとあんたもゆきも消えちまうって話じゃなかったのか。」
その質問に『月』はきまじめな表情を崩さず答えた。
「以前はそうだった。主の力はまだわたしを支えることは出来なかったからな。だが先程、主はわたしに魔力を送り続ける契約を行った。既に主はわたしを支えても揺るがぬ魔力を持つようになっているのだ。」
「そうか、さくらがゆきを家に呼んだのは、あんたとその契約を結ぶためというのもあったわけだな。」
桃矢が腑に落ちたようにつぶやくと『月』は、
「ああそのようだな。しかし主がこのことを考えたのは、もっぱらお前のためなのだぞ。」
と、切り返した。
「俺の？」
「そうだ、主はお前に魔力を返すためにわたしと契約を結ぶといっていたからな。お前から魔力を受け取ったあのとき、主はわたしとお前と仮の姿に負い目を感じたようなのだ。お前に何かあったら今度は自分がお前を守ると言っていた。」
「さくらがそんなことを重く考えていたなんてな。俺はあのとき言ったようにさくらとゆきのためなら、全然かまわなかったんだが。」
「だが、この魔力は主のお前に対する想いの固まりだ。受け取ってもらえるだろうな。」
「想い…か。持っていて害のあるものじゃなし、さくらからのプレゼントじゃ受け取らないわけにはいかないな。」
桃矢が『受け取る』といった瞬間、『月』の表情があからさまに緩くなった。
「受け取ってもらえるか。これで二つ目の話をすることが出来る。二つ目はよりお前に関わることなのでな。」
「何だ、その二つ目って。」
「仮の姿、月城雪兎の名を持つパーソナリティのことだ。わたしは仮の姿のことは全てわかっているのだが、今仮の姿は大変に不安定な状態でいるのだ。」
「仮の姿、ゆきのことだな。あいつが不安定ってどういうことだ。確かに近頃時々思い詰めたような表情を一瞬見せることもあるけどな。」
「わたしが、仮の姿の本心を言うわけにはいかないので、表面的なことだけしか言わないが、『雪兎』は自分がどこにいればいいのかわからず不安なのだろう。お前が隣にいてほしがっていることは知っているのだが、どのくらいの距離にいていいのかわからないのだな。お前も『大事だ』『そばにいろ』とは言うが、どのくらいの距離にいて欲しいのかは言っていない、という事もあるが。」
「距離…距離か。」
桃矢は思っても見なかった雪兎の不安を聞かされて頭を抱えた。自分としても出来るだけ側にいたいのだが、ゼロ距離まで近づく事へのためらいもあるのだった。
「主の兄よ、話は戻るのだが、どのように魔力を戻すかについてお前に話しておかなければならない。」
「何だ、いきなりそんな話を始めて。ゆきのことに関係があるのか。」
「ある。以前わたしが魔力を受け取ったときは、わたしの方に受け入れる用意があったので軽くふれる事だけで簡単にすんだのだが、今度はそうもいかないのだ。早い話有効に魔力を受け取るには、わたし又は仮の姿とお前が一次接触をする必要がある。そのこともあって、わたしはお前に仮の姿の不安を話したのだ。どちらと一次接触をするのかはお前の考え次第だ。わたしにとってその一次接触は、魔力の受け渡し以外の意味を持たないのだがな。」
「…その一次接触って、何のことだ。」
「少なくとも、距離をゼロにすることだ。マイナスの距離ならもっと効率はよいが。」
マイナスの意味に思い至った桃矢はさらに頭を抱えた。
懊悩する桃矢を後目に『月』は話を続ける。
「主の兄よ、わたしが魔力を受け渡した方がよいのならば、いつでも呼びかけるが良い。わたしはすぐに現れる。あとお前に一つだけ言っておくことがある。『想いは力となり、力は変化をもたらす』わたしと主との契約の文言の一部だが、お前と仮の姿の事でもある。この言葉を覚えておくと良い。」
『想いは力となり、力は変化をもたらす』その言葉を聞いて桃矢は心を固めた。変化をおそれている想いは、力のない想いだと思い至ったからだった。
「ふん、やっと『らしい』表情を見せたな。仮の姿の不安がその表情で晴れればよいのだがな。では、いつか又会うだろう。」
『月』はそう言い残すと、風を巻き、雪兎の姿に戻った。
雪兎は先程と同じく不安を抱えたままの表情だった。意識が途切れたことには気付いていない。
「どうした、ゆき。」
「う、ううん、どうもしないよ。」
桃矢の問いかけに、雪兎は慌てて明るい表情に戻った。桃矢はそんな雪兎の肩をつかむと、強い視線で雪兎の目を覗き込み言った。
「お前にうそをつきたくないから話すが、今、俺はお前の本体と話をした。お前が何かに悩んでることも教えて貰った。無理しなくていい、もし話してどうにかなることだったら俺に話してくれ。本体はお前の心の中のことまではなにも言わなかった。」
雪兎は桃矢の言葉に驚きつつも、その視線の強さを信じて語り始めた。
「そうだね、とーやは絶対そんなこと無いって言うと思うんだけど、ぼくの気持ちの中では、もしかしてぼくはとーやの負担なんじゃないかって思いがあるんだ。ぼくの居場所はとーやの側、それはわかるんだけど、どのくらい寄りかかっていいのかがわからなくて不安なんだ。考えても答えは出ないかもしれないんだけどね。」
桃矢は雪兎の思い、いや想いを聞き、雪兎の不安をはっきりと知った。
「ゆき、俺がその答えを出していいか。」
「え、どういうこと？」
「もっと近くに来て欲しい、ゆき。」
驚いて何かを言いかける雪兎の唇を、自分の唇でふさぐ桃矢。
桃矢がこんな事をすると予想もしていなかった雪兎は、一瞬なにも考えることが出来なくなった。だが次の瞬間感じたのは安堵感だった。自分は桃矢にここまで近づいていいのだ、ここまで寄りかかることが許されているんだ、それはなによりも確かな答えだったからだ。
そして初めて自分の意志で想った。
『もっと近づきたい』と。
どちらからともなく、顔を離す桃矢と雪兎だったが、桃矢の体にはしっかりと魔力の一部が戻っていた。それに気付いてか気付かずか、桃矢は想った。
『俺は自分の心に従っただけだ、後悔もしていない。でも、でもな、もしゆきが男じゃなかったらもっと素直にこうしていたんだろうな。』
それもまた、割と強い想いだった。
「おー、ゆき。その辺で何かつまんでいくか。」
「いいよ、とーや。今そんなにおなか空いてないから。」
あの日から一週間ほど経った頃、大学の構内を歩きながら、そんな会話をしている桃矢と雪兎の姿があった。
「そういえばゆき、近頃食ってるところほとんど見ないが、大丈夫なのか。」
理由はだいたい予測しているのだが、あえてそのことを口に出してみる桃矢。
「うん、あの日からかな、以前みたいに、どうしても食べないと体が持たないってことが無くなったんだ。もちろん食べることは好きだから食事はしてるし、体も前より調子いいくらいだから心配しなくていいよ。」
「ま、それならいいんだけどよ。なんかちょっと縮んだような気がしたからな。それと髪の毛どうしたんだ？。いつも結構そろえてたのに。」
「あ、やっぱりとーやも気づいたね。近頃のびるのが早くて。いくら切っても追いつかないんであきらめてのばしてるんだ。」
雪兎は相変わらず屈託無くにこにこと笑いながら話していた。あの日以来表情に翳りが差すことは無くなっていた。桃矢も雪兎が変な不安を抱かないように、できる限り近くにいるようにしていたし、人の見ていないところではゼロ距離に近づくこともあった。
その日も、人の視線がないことを確認して、ほんの一瞬だけゼロ距離に近づいた。
「ま、ばれてもかまわないって開き直ってはいるけど、まだ人の眼を気にしちまうな。」
桃矢は照れたように頭をかきながら、ぼそっとつぶやいた。
「やっぱり周りから見ると、あんまり気持ちのいいものじゃ無いんだろうね。いっそのことぼくが女の子に見えればいいんだけどね。」
「別にゆきが気にすることはないと思うぞ。俺は『月城雪兎』が好きだし、大事なんだからな。」
「ありがと、とーや。」
「うわ、またあの夢見ちまった。だんだんディティールがはっきりしてきたし…。やっぱり俺は心の中でそういうことを望んでるのか。」
この夢を見たあとはいつも体が熱を持っていた。まるで体内で何かが渦巻いているような感じがするのだ。
木之本桃矢は再度悩んでいた。
もちろん悩みの元は彼の想い人、月城雪兎のことだった。
近頃の雪兎はますます女の子のように変化してきていた。別に本人はそのことについて全然気にしておらず、
「ぼく、人間じゃないんだし、こんな事もあるんじゃないかな。」
などといって明るく笑っていた。
だが桃矢の心には、それだけではすまされない、ある気がかりがあった。
以前『月』が言っていた、『想いは力となり、力は変化をもたらす』という言葉だった。
「確かに、俺はゆきが男じゃなかったらこんなに悩まなかった、とは思った。魔力とやらも幾分戻ってきてるみたいだ。それを考えると、ゆきを変化させているのは、もしかすると俺の想いなのかもしれない。…何しろあんな夢見ちまうくらいだもんな。」
たった今まで見ていた夢を思い出す桃矢、そしてまた頭を抱えた。その夢の中では桃矢は確かに幸せなのだった。
木之本家ダイニングルーム。
木之本一家の３人が座っている。キッチンの方に声をかける桃矢。
「おーい、ゆき手伝おうか。」
キッチンの方から、弾んだ明るい声が響いてきた。
「うん、ちょうど今できたから運ぶのだけ手伝ってくれる？。」
「おう。」
キッチンの方から料理を持って現れるエプロン姿の雪兎。桃矢にとって一番愛しい新妻だった。
「うん、おいしそうですね。ゆきとさんは上達が早いからぼくも教え甲斐がありますよ。」
料理のできを見て、雪兎をほめる父。
「わたし、またお家で一番料理が苦手になっちゃうかも。」
笑いながら料理を見つめる妹。
そんな『家族』を見ながら心底幸せそうな雪兎。妹にも母親にも少しずつ似ている面差しをほころばしていた。
絵に描いたような家族団らんだった。
「うう、どうしたらいいんだ、俺。この前みたいな夢を連続で見たら、耐えらんなくなっちまいそうだ。」
今回はまだ人に話せるような夢だったが、たまには人に話せないくらい危険な夢も見てしまう桃矢だった。
「そういえば、この辺に来たの久しぶりかも。」
さらに一週間ほど後、さくらは雪兎の家の近所を歩いていた。気分を変えるためにいつもと違う道を歩いているうちに、たまたまたどり着いてしまったのだった。
せっかくここまで来たのだから、雪兎の顔を見に行こうと思い立ったさくらは、雪兎の家の方に足を向けた。
そのころ雪兎は洗濯の真っ最中だった。
「ちょっとため込んじゃったからな、まとめて洗っちゃわないとね。」
そう言いながら、雪兎はシーツやバスタオルなどの大物を庭に干していた。そんなところにちょうどさくらがやってきた。
「こんにちわ、雪兎さん。お洗濯ですか、いいお天気ですもんね。」
シーツの後ろにいる雪兎にそう声をかけるさくら。
「その声はさくらちゃんだね、何か用かな。」
向こう側から、返事を返す雪兎。シーツ越しに聞く声はいつもとちょっと変わって聞こえた。
「いえ、たまたまこの辺を通りかかったから、ご挨拶だけでもしようと思って。」
「あ、そうなんだ。それじゃ時間があったらお茶でも飲んでいかない？。」
「ありがとうございます、それじゃ遠慮なくごちそうになっちゃいます。」
しかし、いつものような平和な会話はそこまでだった。
シーツの後ろから現れた雪兎を見たさくらは思わず叫び声をあげてしまった。
「ほ、ほえーっ。あ、あの、ゆ、雪兎さん…ですよね、本当に。」
「もちろんそうだよ、さくらちゃん。…あ、そうか。この姿のことだね。」
もちろんさくらにも目の前の人物が雪兎ないし『月』なのは、魔力の波動的に間違いようのないところだった。但し見た目の姿形はさくらの知っている雪兎とはかなり違っていた。
「どうしちゃったんですか、髪の毛長いし、まるで女の人みたいに見えるんですけど…。」
「とにかく上がって、さくらちゃん。どうしてなのか話してあげるから。」
呆然としながらも、そくされるまま部屋に上がり込むさくら。程なく雪兎がお茶を持ってやってきた。
「まず、はじめに言っちゃうと、何でなのかはぼくには全然わからないんだ。多分ぼくがさくらちゃんの家に行った日から始まったんだと思うんだけどね。」
「わたしの家に来た日…からですか。」
「あの日、ぼくにとって天地がひっくり返るくらい大事なことがあったんだ。それから、心配事が無くなったからかもしれないんだけど、ご飯をたくさん食べなくても体はすごい元気でいられるようになったんだ。あと、この姿もだんだんと、ね。」
雪兎の大事なことが何かはわからなかったが、そのあとについては心当たりがありすぎるほどあったさくらだった。だがそれについてはなにも口を挟まず続きを聞いた。
「もちろんちょっと驚いたけどね、でもぼくは人間じゃないし、こういうことがあるのかもしれないって考えたら、全然気にならなくなっちゃったんだ。ただ、とーやが何か、『自分のせいかもしれない』って落ち込んじゃってるんだけどね。」
「お兄ちゃんが？」
「うん、そうなんだ。何か心当たりがあるみたいなんだけどぼくには何も言ってくれないんだ。」
そこまで聞いたさくらは、雪兎の聞いているタイミングであえて『月』を呼び出した。
「あの、ごめんなさい雪兎さん。『月』さん出てきてくれますか。」
「主よ、何か用か。」
いつものように、雪兎の周りに風か巻き、銀色の髪の青年が…現れなかった。
「ほ、ほえーっ、ゆ、『月』さんまで…。もうどうなってるんだかわかんないよー。」
さくらの叫び声に反応したのか、空のかなたからケロがぶっ飛んできた。
「どないしたんやー、さくら。…って、なんやーっ『月』、なんちゅう姿になっとんのや。」
目の前にいるのは、白い大きな翼を持ち、銀色の髪をした『月』だった。
但し、やはり女性の姿をしていた。それもさくらの知っている女性の幾人かを合わせたような姿だった。
「ほえぇ、お母さんの写真と、歌帆先生と、ちょっとだけ知世ちゃんにも似てる。」
「何をうろたえているのだ、主、それにケルベロス。契約の文言から予測できた姿だと思うのだが。」
「わいら、そないなこと知らんわ。あの文言かてイギリスにおるクロウの生まれ変わりから教えてもろたもんやし。」
「なんで女の人なの？。それにお母さんとか歌帆先生に似てるのはどうして？」
「女性体に見えるのは、魔力の接続によって主の属性をそのまま映し出しているからだが。姿形のイメージは主が持っている『守ってくれるもの＋女性』のイメージから導かれているはずだ。契約の中の『汝の全て我のものなり』で、属性ごと主と同じくなり、『守護者』の文言で姿形を形成しているからな。おそらく仮の姿の方は主をベースにした姿になるだろう。以前の仮の姿がクロウをベースにしていたのと同じようにな。」
「ほえ〜。エリオル君、こんな事になるなんて一言も言ってなかったのに。」
「…あいつ、やっぱりクロウそのまんまやな。この性格。」
ケロがあきらめ混じりの口調でつぶやいた。
「…まさか主が知っていなかったとはな。確かにこのひねくれ度合いはクロウのものだな。だがこれに何か問題があるのか？。わたしは外見がどうであろうと関係ないし、仮の姿も特に気にしていない、むしろ歓迎している節もあるのだが。」
「ほえ、雪兎さんが？、どういうことなのかな。」
さくらは無邪気に『月』に聞き返した。
「仮の姿は、主の兄のことが好きで、もっと近づきたいと思っているのだ。だが主の兄は最初の線は踏み越えたが、もう一歩踏み出せない様なのでな。」
「？？」
「そこまでにしときや『月』。さくらには、ちーと早すぎる話やったかもしれんしなぁ。」
ケロは何かを納得したかのようにうなずいていた。
「うむ、そうかもしれんな。」
自分にはまだ早い、その言葉を聞いたさくらは、いきなり何の話をしていたかわかってしまい、真っ赤になった。
「あ、あははは、そ、そうだよね、ま、まだ早いよね。」
うろたえまくるさくら。いくら疎いと言っても女子中学生、それなりに知識はあるのだった。
「そ、それでわたし、どうしたらいいんだろう。」
落ち着くまでたっぷり３分かかったが、何とかペースを取り戻したさくらが『月』に問いかけた。
「一番いいのは、おそらく何もしないことだと思うが。わたしも仮の姿の行動には極力干渉しないことにしているしな。まあ、何かをするのであれば仮の姿を応援する位に止めておいた方がいい。」
「そやな、人の色恋ごとに首つっこむとろくな目にあわんよってな。それに何よりこれは当人同士の問題や。」
「うん、二人がそういうなら、わたし何もしないことにするけど…。」
ちょっとだけ釈然としないさくらだったが、ケロの次の一言で納得した。
「さくらかて、小僧とのことを自分で決めたやろ。それと同じ事や。」
「それじゃ、雪兎さんに戻ってください。」
さくらがそういった瞬間、『月』は、また風を巻き雪兎の姿に変わった。
「え、なに、さくらちゃん。」
雪兎は、なぜさくらが謝ったのか、一瞬把握できなかった。
「ごめんなさい雪兎さん。今『月』さんに変わってもらいました。」
「ああ、そうか。大丈夫だよ、気にしてないから。」
さくらの瞳を優しく見つめる雪兎。姿形はかわっても、眼鏡の向こうの眼差しは変わっていなかった。
ふと、雪兎の目から視線を下に落とすさくら。かすかに雪兎のシャツの胸の当たりが膨らんでいるのがわかった。
「胸も…あるんですね。雪兎さん。」
「うん、ここ２、３日でね。もうほとんど女の人の体なんだ。」
「ごめんなさい、実はそれ、わたしのせいでもあるんです。そのことお話ししたいんですけど、聞いてもらえますか？。」
「うん、大体は知ってるんだけど、さくらちゃんから話してくれたらうれしいな。」
さくらは、『月』と雪兎、ケルベロス、カード達、クロウ・リードについて語り、桃矢の魔力を戻すため『月』と新しい契約を結んだことを告げた。
「全部とーやのためだったんだよね、さくらちゃん。ぼくがこの姿になったのも含めて。」
「はい…わたしはそのつもりだったんですけど、雪兎さんにご迷惑かけちゃって…。」
なおも謝ろうとするさくらを、雪兎はそっと抱きしめた。
「ゆきと…さん？」
「ありがとう、さくらちゃん。」
謝っていたはずなのにお礼を言われて、驚くさくら。
「え、ありがとうって？」
「とーやのために出来る事があった。ぼくはその事が嬉しいんだよ。それをさせてくれたのがさくらちゃんだったんだ。」
「雪兎さん、お兄ちゃんのこと大好きなんですね。」
「うん、言葉に表せないくらい好きだよ。」
「わたし、お兄ちゃんも雪兎さんも大好きです。前に知世ちゃんが言ってたことがあるんです。『自分が大好きな人が幸せでいてくれるのが一番幸せ』だって。だから雪兎さんにもお兄ちゃんにも幸せになってほしいんです。」
「そうだね、幸せになれるように頑張るよ。」
このとき、さくらと雪兎の間にも新しい想いの絆がつながった。
真夜中まであと少しの時分だった。
目を閉じて深い思索に入っていた魔法使いは、自分が遠い日本にいる少女に託した呪文の、もう一つの側面を思いつき、愕然とした。
「いけない、私としたことが…。このままではさくらさんの兄君が大変なことになってしまう。ルビー、スピネルこちらへ。」
「どうしたのー、エリオル。こんな夜中に。」
「何事ですか、珍しくあわてていらっしゃいますが。」
「ルビー、こんな夜更けにすまないが、歌帆にすぐに私の家に来るように伝えてほしい。瞬間移動を使ってもかまわない。スピネルは私とともに大移動の陣を作る手伝いを頼む。」
せっぱ詰まった声で魔法使い、柊沢エリオルが自分のファミリアである一人と一匹に仕事を言いつける。
「はい、エリオル。何が起こったかわかりませんが仰せの通りに。して、移動先は？」
「日本の、元の屋敷だ。ルビーも歌帆を早く。一刻を争う。日本のさくらさんと、兄君が危ない。」
「えーっ、とーや君が？、たいへーん。それじゃ歌帆引っ張ってきまーす。」
そう叫ぶと、ルビームーンは、光る粉を振りまきつつ消えた。
儀式の間に陣を引き終えた頃、ルビーが歌帆を連れて戻ってきた。歌帆の方は寝ぼけ顔のすっぴんで、手近にあった服をそのまま着ただけといった雰囲気だった。
「エリオル、一体何があったの。」
そこまで問いかかった歌帆だったが、エリオルの厳しい表情を見て言葉を飲み込んだ。人生を楽しんで生きるタイプのエリオルが滅多に見せない表情だった。
「なんだか緊急事態みたいね、それじゃ聞かないわ。わたしは何をすればいい？」
「日本で事が起こっていたら、さくらさんのフォローを。時間がない、陣の内側へ。」
歌帆とルビーが陣内に入ったのを確認し、陣を発動させるエリオル。
ロンドンと日本にある陣の内側、半球状の空間が即座に入れ替わる。気が付くとそこは朝の東京だった。
刹那、杖を準備し、探索の呪文を唱えるエリオル。その顔がほんの少し歪む。
「遅かったようです、でもまだ手は残っているはずですし、さくらさん達もどうにかしようと頑張っている様子です。でも予測通りならさくらさんの魔力は…、とにかくさくらさんの家へ急ぎます。」
１０分ほど話は戻る。
「お兄ちゃん、ご飯出来るよー。」
時間になっても食堂に降りてこない桃矢を起こしに来たさくらは、桃矢の部屋の中から漏れ出すとてつもない量の魔力を感じ、慌てて部屋のドアを開けた。
「何があったの、お兄ちゃんっ。」
そこにさくらが見たものは、ベッドの上で苦しむ桃矢の体を包み込んだ、無制御で暴走する魔力の渦だった。
「さくらっ、なにごとやっ。」
異常を感じ、隣の部屋からケロも飛んでくる。
「お兄ちゃんの魔力が、暴走してるみたいなの。すごい力…どうしよう。」
「とにかく杖出すんや、なにするにしてもそれからや。」
「うん。」
そう言うとさくらは星の鍵を元に戻した。
「星の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ。契約の元さくらが命ずる。封印解除（レリーズ）」
その瞬間、桃矢を取り巻く魔力の渦が一段と大きくなった。
「ぐ、ぐおぉっ」
うめき声を上げる桃矢の姿に慌てて駆け寄ろうとするさくら。だが魔力の渦はそれを拒むようにさくらと桃矢の間に見えない壁を作った。それは『盾』のカードが作る障壁に似ていた。
「なんや、あの力、さくらの魔力に反応して姿を変えたんちゃうか。」
ケロはそう分析し、さくらに告げた。
「さくら、わいを元の姿に戻して、『月』もここに呼ぶんや。で、さくらは魔力を使わん方がええ。」
「封印の獣『ケルベロス』よ、真の姿をここに示せ。」
ケルベロスの姿が、ぬいぐるみから翼を持った猫科の大型動物の姿に変わる。それと同時に『月』が部屋の中に現れた。
「なにがあった、主よ。なんだこれは…うおっ。」
突然魔力の渦が、『月』に向かって触手の様なものをのばした。間一髪それをかわす『月』。攻撃をかわされた魔力の渦は再び桃矢の上へ戻る。
一本目が引っ込んだ刹那、全然別の位置から二本目の触手が『月』をおそう。その触手は『月』の髪の毛をかする。ちぎれ飛ぶ髪の毛と同時に『月』の魔力がごっそり吸い取られた。魔力の渦は吸い取った魔力の分さらに大きくなる。
三本目の触手は割って入ったケルベロスに巻き付くが、ケルベロスは魔力を吸われることもなく、逆に前足の爪で触手を引きちぎった。
「これは…主の兄の魔力なのか。なぜこんな事が起こったのだ。」
「『月』話はあとや。とにかくにーちゃんの体からあれを引き離さん事には始まらへん。だが難儀なことにさくらが魔力つこうたらあれが強くなるんや、で『月』は魔力を吸われる、わいは何ともないみたいやけど一人やと決定力不足や。どないしたら…。」
「もしかして、小狼君なら、わたしとは違う系統の力だから何とかなるかも。」
さくらのそのつぶやきに、同意するケルベロス。
「そや、小僧のは香港系の道術や、何とかなるかもしれん。よっしゃさくら、小僧の助けを借りるんや。」
机の上の携帯電話で、小狼に連絡するさくら。
『はい、李です。』
「あ、小狼君、お兄ちゃんが大変なの。わたしの力じゃどうにもならなくて…おねがい、家に助けに来てっ。」
『…よしっ、すぐ行く。それまでがんばれ、さくら。お前なら『絶対大丈夫』だ。』
「う、うん、ありがとう小狼君。」
さくらのその言葉を聞くか聞かないかの内に、電話は切れた。小狼の励ましを胸に、さくらはもう一度思いを強める。
「うん、お兄ちゃんをこれ以上苦しませない。ケロちゃんも『月』さんも小狼君もいる。絶対だいじょうぶ。」
さくらは、再度桃矢の方に向き直り杖を構えた。
ケルベロスと『月』はそれの繰り出す触手と戦い続けていた。触手は『月』を集中的に狙うので、『月』をおとりに、伸ばした触手をケルベロスが攻撃するフォーメーションだった。
だが、さくらがそれに向き直った瞬間、一本の触手がさくらに向かって伸びた。
「主っ。」
「さくら、『盾』やっ。」
さくらもその叫びと同時に『盾』を展開していた。しかし触手は『盾』に阻まれることなく、盾の魔力を吸収し伸び続けた。
「え、『盾』が効かないっ。」
思わず叫び声をあげるさくら。だが触手はさくらに触れる寸前に動きを止めた。
「なんや？」
その動きは伸び続けようとする触手を、何かの力で無理矢理押しとどめているようだった。同時に『月』をねらう触手も全て引っ込んでいた。
そのとき、そこにいた全員は荒い息の下で桃矢が絞り出すような声で呟くのを聞いた。
「さく…ら、逃…げろ。こ…の…野郎、さくら…にも、ゆきにも指一…本触れさせ…ねえぞ。」
「お兄ちゃんっ。」
ケルベロスは、さくらの目の前の触手を屠り呟く。
「盾が効かんちゅうことは、あの魔力はさくらの物ちゅうことになるで、なんなんや一体。」
さくらの『盾』の魔力を吸ったそれはさらに大きさを増したようだったが、桃矢が必死に攻撃を止めているため動き出すことはなかった。だが桃矢の気力もいつまで持つかわからなかった。
「さくらーっ、無事か。」
その時、窓の外から小狼の声が聞こえた。
「小狼君、早くっ。」
窓を開けて叫ぶさくら。その叫びを聞いた小狼は何かを呟くと一足飛びで家の前の道路から桃矢の部屋の窓にとりつき、窓から部屋へ入った。
「小狼君、こんなに早く来てくれるなんて思わなかったよ。」
「『縮地』と『雲梯』を使ったからな。それよりどうしたんだこれは。」
「小僧、説明はあとや。『結界』は使えるか。」
ケルベロスが緊迫した声で小狼に聞く。
「ああ。」
簡潔に答える小狼。それを聞いたケルベロスは一つの作戦を語った。
「わいと『月』がおとりになってあいつをにーちゃんから遠ざける。さくらは『剣』であいつとにーちゃんを切り離すんや。そこで小僧がにーちゃんの周りに『結界』を張りもう一度にーちゃんと融合しないようにするっちゅう作戦や。」
「うん、わかった。」
「タイミングが勝負だな。」
「これ以上主にも主の兄にも指一本触れさせん。」
そして乾坤一擲の作戦は開始された。
「お兄ちゃん、力を緩めて。」
さくらの声が聞こえたのか、気力が限界になったのか、桃矢はそれの拘束を解いた。全ての触手を『月』に向かって伸ばすそれ。『月』は瞬間移動でそれの触手をかわす。入れ替わるように現れたケルベロスに触手が巻き付く。
「『剣』！」
その機を逃さずさくらはそれと桃矢の間の何もない空間を薙いだ。
その瞬間、それが震えた。巻き付いていた全ての触手を戻し、渦巻きを高速で回転させ、苦しむような動作をした。
「小狼君、お願い。」
さくらが叫ぶ。
「応。」
小狼は叫び、結界の呪をとなえた。
「急々如律令。我知世理結界！」
桃矢とベッドに被さるような形の魔力の空間が現れ、桃矢を外の空間から切り離した。
それは何とか桃矢の元に戻ろうと結界にぶつかったが、果たせなかった。
桃矢の元から苦痛は去ったようだった、だが桃矢は消耗しきり荒い息をついていた。
「何とかあいつは離れたようやな。これでにーちゃんに危害が及ぶことはのうなったはずや。そやけどこれからどないしたもんか。」
エリオル達が木之本家にたどり着いたのはこのすぐあとだった。
「ほんとうにすみません、さくらさん。まさかこのようなことになるとは思っても見なかったもので。」
エリオルの魔法で暴走した魔力の渦を一時的に動けなくしたあと、さくら達は事の顛末をエリオルから説明されていた。
その前に、初めて『月』の新しい姿に気付いた小狼が硬直して、さくらがむくれたりもしたのだったが。
「私がお教えした術式は、さくらさんの身近に兄君がずっといることを失念して作ってしまったものだったのです。そのため魔力のハウリングとでも言う状態になり、出口を失った魔力が兄君の中に溜まってしまっていました。なまじ兄君の魔力のキャパシティが並みの人間より遙かに大きかったため、こんな大げさな魔力の暴走が起こってしまったのです。」
「あの、エリオル君、説明は何となくわかったけど、この魔力をどうしたらいいの。あとお兄ちゃんはほんとに大丈夫なの。」
さくらが心配そうに尋ねる。
「問題はそこなのですよ。暴走した魔力の方は私の魔法でさくらさんの魔法が通じるようになっているので、どうにか押さえ込んで、杖で元の魔力の固まりに戻せばいいのですが、そのためには、またさくらさんに戦って貰わなければならないのです。」
エリオルはそこで話を切ると、桃矢の状態を見ながら先を続けた。
「しかしそれだと、消耗しきっている兄君が危険なのですよ。ここまで魔力を消耗している人を見るのは私も初めてなもので、どのくらい持つのかわからないのです。『月』が側で魔力を補充し続けられるといいのですが、『月』なしで暴走した魔力と戦うのはかなり厳しいはず。おそらくこの魔力も魔力獣（マナ・ビースト）の形を取るでしょうから。」
「それでも、お兄ちゃんが危険なよりいいです。わたし、『月』さんがいなくても頑張ります。」
兄を心配し、エリオルに告げるさくら。だがエリオルは首を横に振る。
「『月』は兄君よりも主であるさくらさんの危険の方に反応してしまうのですよ。」
「それじゃ、一時的に『月』を２人に分けたらいいんじゃない、月城君と。月城君はとーや君の方が心配なはずだしね。ここにはエリオルの半身もいるし、さくらちゃんとエリオルの魔力ならそのくらい出来そうじゃん。」
そうルビーが提案すると、エリオルも肯いた。
「それはいい手ですね。さくらさん、お父さんはどうしていますか。」
「今日はお仕事お休みだから、家にいるよ。でも昨日夜遅かったからまだ寝てると思う。」
「それでは少しだけ魔力を借りることにしましょう。さくらさん私のあとに続いて詠唱してもらえますか。名乗りのところだけ、自分の名前にして下さいね。」
「はい。」
「汝カードの守護者たる『月』よ。一時その身を二つにし、二つの約定を果たせ。」
「汝カードの守護者たる『月』よ。一時その身を二つにし、二つの約定を果たせ。」
「別れし身に仮の姿を宿し想いを分けよ。創造者の名の元エリオルが命ずる」
「別れし身に仮の姿を宿し想いを分けよ。契約者の名の元さくらが命ずる」
「「二身分割（ディパイン）」」
闇の杖と星の杖の間に魔力が走り、『月』の姿が二重写しのようになりだんだんと分割していった。別れたもう一つの体の方は途中から雪兎の姿に変わっていった。
しばらくして、完全に２人に別れた『月』と雪兎がそれぞれ目を開ける。
「２人が顔を合わせるのは初めてだな、『雪兎』よ。」
「あなたは…ぼくの本体？。でもどうして。」
「詳しい話はそこのエリオルに聞け。私は主とともに行かねばならん。」
「柊沢君？」
２人の会話にエリオルが割り込む。
「すみませんけど事は一刻を争うのです。さくらさん、魔力を解放します。押さえ込んだら出来る限り早く戻って下さい。李君もこれを。」
そう言うとエリオルは暴走した魔力の結界を解放した。魔力はピンク色に輝く鳥の姿になって窓の外に飛び出した。それと同時に小狼の道服が風をはらむ。
「李君、さくらさんを助けてあげて下さい。それで『翔』のカードと同じ効果があります。」
さくらは『翔』のカードを展開し鳥の後を追った。続けてケルベロス、『月』、小狼も続いた。
「ルビー、スピネル。あなた方もさくらさん達を見守って下さい。あの魔力獣、思っていたよりもてこずりそうです。」
エリオルがそう告げると、ルビー・ムーンとスピネル・サンもやや遅れてさくらの後を追った。
「ねえ、エリオル。どうして暴走した魔力を遠くにとばしたの。」
その場に残った歌帆がエリオルにそう尋ねる。
「やはり、歌帆には隠せませんでしたね。さすがにさくらさんにはこれからのことを見せるわけにはいけませんからね。」
それを聞いた歌帆は、非常に複雑な表情をしながら言った。
「やっぱりそう言うことだったのね。気は進まないけどとーやの方準備しとくわ。」
「ねえ柊沢君…じゃなくてクロウ・リードさん。ぼくは一体何をすれば。」
何が起こっているのか判らない雪兎がエリオルに尋ねる。エリオルはおや、という表情をしたがすぐさま笑顔に戻り言った。
「エリオルと呼んで下さい。月城雪兎君。あなたには木之本桃矢君に魔力をそそぎ込んでもらうことになります。いま、桃矢君は魔力を暴走させてしまい、その魔力を切り離した状態にあります。人間が生きていくのに必要な自然力すら残っていません。あなたは逆に魔力のみで構成された存在です。つまりあなたが桃矢君に魔力をそそぎ込むとしたら、それはあなた自身の存在を削るということです。」
「ぼくが存在を削ればとーやは助かるんですか。それでぼくは何をすればいいんですか。」
「可能性は確実に上がることになりますね。ところであなたの体はもう完全に女性のものですか。」
「…ええ。そうです。」
「なら話は早い。想いとともにあなたの全てを桃矢君にあげればいい。」
「エリオル、こっちは用意できたわ。全く何で昔つきあってた子の、服を脱がす手伝いなんかしなきゃならないのよ。」
「桃矢君の結界は消しておいた。後は雪兎君、あなた次第だ。我々はここにいない方がいいな。歌帆、私たちは姿を消そう。」
そういうとエリオルはマントに歌帆を隠し、空間の狭間に隠れた。
その部屋に残されたのは、全裸の桃矢と、立ちつくす雪兎だけだった。
「とーや。」
雪兎がつぶやく。その言葉に反応するかのように桃矢の口から、うめきにも似たつぶやきが漏れる。
「…ゆき、さくら、絶対守って…やる。」
雪兎はベッドの脇にしゃがみ込み、桃矢の唇にそっと自分の唇を触れさせた。その瞬間雪兎の体から桃矢に大量の魔力が流れ込む。それは、確実に雪兎の存在を薄くした。
「まだ、全然足りないのか。」
それだけの魔力を吸収しても、桃矢の状態は回復していなかった。呼吸がやや落ち着いた程度だった。それでも桃矢の意識は戻ったようだった。薄く目を開けた桃矢はそこに最愛の人の姿を見つけて、安堵の表情を浮かべた。
「…よかった、まだいたな、ゆき。」
そういうと再び目を閉じた。雪兎は何かを決心したかのように、着ていた服を脱ぎ桃矢の上に覆い被さった。
「…ゆき？」
もう一度目を開けた桃矢は、正面にある雪兎の顔を見つめた。
「とーや、大好きだよ。ぼくを受け取って。」
天使のようなほほえみで、桃矢の目を一度のぞき込むと、雪兎は桃矢と体を重ねた。
重なった部分から桃矢に魔力が流れ込んでいった。
だんだんと、雪兎の存在を薄くしながら…。
「うっ、これは。」
『月』の体から何かが抜けていく感じがした。
「どないした、『月』」
並んで戦っていたケルベロスが声をかける。
魔力獣は想像を遙かに超えた強さだった。さくらの魔力の生粋の部分を集めたかのように、全てのカードの能力を自らのものにしているようだった。『盾』で身を守り、『剣』や『火』『水』などの攻撃魔法を駆使し、『幻』や『影』で惑わす。さらには『鏡』で自分の分身を作り二体で攻撃を仕掛けてきていた。ケルベロスと『月』は今、分身の方の攻撃を食い止めていた。
「『雪兎』に何かあったようだ。主には言うな。ただ、急いだ方がいいかもしれない。」
「そやな。まさか６人掛かりでこないに手こずるとは思うてもみんかった。」
魔力獣の分身が触手を伸ばす。今の姿は肩に３本ずつの触手を生やした虎のような獣だった。あわてて上下に離れる『月』とケルベロス。
一方本体の方ではさくら、小狼組がルビーとスピネルのフォローを受けつつも苦戦していた。
「また元に戻りやがった。きりがないな、あいつの魔力はどのくらいあるんだ。」
さくらの防御に回りつつ小狼がこぼす。魔力獣の本体は弱る気配さえ見せていなかった。
朝一での戦いから、『月』の分割、そしてこの戦いと、さくらの小さな体にはかなりの疲れがたまっていたが、さくらは視線をまっすぐ魔力獣の方に向けたまま言った。
「弱気になってる場合じゃないよ、小狼君。なんかいやな予感がするの。早くどうにかしないと大変なことになりそうなの。」
さくらの心の中に、得体の知れない不安が巻き起こっていた。何かが起こって、自分から流れ出す魔力の量が急激に増えた。そんな感じだった。
「来るぞ、さくら。『幻』は俺が防御する。おまえは『剣』で本体を。」
「うん、真ん中のだね。」
『幻』で５体に見せかけた魔力獣のうち、左右２体ずつの幻は小狼の『結界』にぶつかり消滅する。真ん中の１体はスピードを落としつつもそのまま突っ込んでくる。さくらがそいつを攻撃しようとした刹那、上空からルビーの制止の声がかかる。
「さくらちゃん、それは『影』よ。本体は真後ろ、『消』で隠れてるわ。」
あわてて振り向くと、『剣』を前に向けて突き出すさくら。『消』の魔力が破れ魔力獣の本体に中ぐらいのダメージを与える。
「これも、決定打ではありませんね。おや、また回復しますか。どうやらしばらく時間の余裕が出来たようですね。」
戦況を分析するスピネル。他方では魔力獣の分身が、『月』ケルベロス組によって消滅させられていた。
「こいつは、消滅させるより封印する方が早いんちゃうか。」
「ああ、消滅させた分の魔力が本体に戻っているようだ。主のフォローにもなっていない。」
「せやけど、あんだけごつい魔力を封印しよ思たらあの魔法『アストラルケージ』しかあらへん。四大と光闇を同時に扱わなあかんで。」
「高位カード６枚をフルパワーで同時に扱うことが、今の主に出来るかどうか。」
「難しいかもしれん、そやかて今のままやとじり貧や。さくらに頑張ってもらわな、らちあかんのや。」
そこまで言うとケルベロスはさくらの元へ飛んだ。
「さくら、こいつは倒そう思ても難しいみたいや。封印した方がええ。」
「え、ケロちゃんそれって？」
「わいらがいくら攻撃しても、こいつの回復能力に追いついとらんのや。そやからこいつを封じ込めて純粋な魔力に還元する方が、結局解決は早いと思うんや。ただな…」
「ケルベロスはさくらちゃんの体が持つかどうか心配なのよね。」
下に降りてきたルビーがコメントを入れる。
「そや、その魔法『アストラルケージ』は全盛時のクロウですら数えるほどしか使こてへん大魔法やさかい。高位カードの６枚同時召還とフルパワーでのコントロールをせなならんのや。」
ケルベロスの弱気なせりふに、さくらは異を唱える。
「わたしやってみる。今できる最善のことを試してみたいの。本当の事言うとすごく不安だよ。でもやらないで何か起きちゃったら絶対に後悔すると思うの。」
「さくらには隠さん方がええのかもしれんな。実は『月』が言うには、急がんと雪兎がやばいらしいんや。…よっしゃ、判ったでさくら。『世界で一番強い魔法使い』の根性見せたれ。」
「我が召還に答えよ『地』『水』『火』『風』『光』『闇』！」
星の杖に魔力が流れ込み、６枚の高位カードが次々に姿を変える。さくらの息はそれだけで上がり始めていた。
「魔力獣の四方にエレメンタルの４体を、真上に『光』を真下に『闇』を配置するんや。したらも一度カードに戻して、それぞれの間に魔力の道を作る、ここが気張りどころやで、さくら。」
「うん、ちょっとつらいけど頑張る。」
魔力獣から十分な距離を置いた六方位にそれぞれのカード達が移動し、正八面体を描くように魔力が流れ始める。
「よっしゃ、ケージは完成や。あとは力技や、カード同士の距離をどんどん縮めたれ。」
ケージの中で魔力獣が暴れ始めた。体当たりをし、逆属性の魔力をぶつけ、どうにかケージから出ようとする。
攻撃を受ける度、さくらに反動が伝わっていた。歯を食いしばり耐えるさくら。歯がみしつつも、傍観することしかできない残りの五人。
「くっ、もっと近づいて、みんなっ。」
カード同士の距離が１０ｍを割るあたりから、目に見えて近づくスピードが落ち始めた。
「あかん、魔力が足りとらん。『月』、わいらももう一度杖の力になるで。」
「ああ、わかったケルベロス。主よおまえの『無敵の呪文』を忘れるな。主の想い人よ、いざというときには、お前が主を支えてくれ。」
「だめだよ、ケロちゃん、『月』さん。わたしもっと頑張るよ、だから…。」
「さくら、お前ならやれる。ケルベロスも『月』も必ず戻ってくる。だって『絶対だいじょうぶ』なんだろう。」
「そうだったね、小狼君。『絶対だいじょうぶ』だもんね。」
背中から腕を回し、杖を持つさくらの手に自分の手を重ねる小狼。ケルベロスと『月』が杖に取り込まれていく。杖の形が変わり、魔力の流れが激しくなる。カードはまたゆっくりと近づき始める。
「さくら、確かあのときも一緒に魔力を使ったな。あのときは俺が先に力つきたけど、今日は絶対にさくらを守ってやる。」
そのあとは、言葉もなくひたすらカードを近づけることだけに集中する２人。カード同士の距離は５０ｃｍを残すのみとなった。
「だいじょうぶ、絶対だいじょうぶ。」
ただひたすらその言葉を繰り返すさくら。しかし最後の５０ｃｍがどうしても縮んでいかなかった。
『杖に力を与えられるのは、さくらだけなのか。俺の魔力がそのまま杖に込められれば。』
小狼の魔力はそのままの形では杖に伝わっていなかった。小狼の発する自然力をさくらが自分の魔力にしているだけだった。当然効率は良くなかった。
その時突然小狼に、杖の中の『月』から意識が伝わってきた。
『主の想い人よ、主と触れ合うのだ。それでお前の魔力は主に伝わる。』
小狼は、すべきことを悟った。
「さくら、がんばれ。今、俺の魔力をお前に渡す。ムードも何もなくてごめんな。」
そしてさくらの顔を自分の方に向け、そっと口づけをした。
その瞬間、小狼の魔力がさくらの中にダイレクトに流れ込んだ。魔力は臨界を越え、カードは一気に５０ｃｍの距離を詰めた。
『いまや、さくら。封印の呪文を！』
ケルベロスの声がさくらの脳裏に響く。
さくらは最後の力を込めて高らかに呪文を唱えた。
「星の力を以てここに宣ずる。四大天冥の力のゆりかごに眠れ、暴れし者。契約の元さくらが命ずる。アストラルケージ！」
そして封印魔法『アストラルケージ』が発動した。
役目を終えたカード達が次々にさくらの元に戻る。杖の中からケルベロスと『月』が出現する。そして小狼はさくらのことを後ろから強く抱きしめていた。
「小狼君。」
さくらが問いかけようとするが、小狼は真剣な様子で告げた。
「さくら、まだ終わってない。話は全部終わってからにしよう。あいつはどうなったんだ。」
魔力獣がいた場所には、直径２ｃｍくらいの淡く光る球体が浮いていた。純粋な魔力の結晶だった。それはさくらが以前雪兎にもらったあめ玉にも似ていた。さくらはそっとその球体を握りしめた。
安堵のため息をつくまもなく、『月』がさくらに告げる。
「主よ、雪兎の反応がきわめて弱い。すぐ戻った方が…くっ…。」
そう言った『月』もかなり消耗している。以前の姿ならともかく今の姿は女性のものなので悽愴の気さえ帯びていた。
「『月』さん、大丈夫ですか。」
「この様子やと、瞬間移動はできへんやろな。飛んで戻るしか手はあらへんか…。」
「うん、急がないと雪兎さんが…。」
そう言うさくらも『翔』の魔力を維持するのが精一杯の様子だった。その様子を見かねたのか、ルビーがこう言った。
「しょうがないわね、さくらちゃん頑張ったから、わたしが瞬間移動で戻してあげるわ。」
「え、ルビーさん？」
「まあ、それが妥当な線でしょうね。さあ、皆さんルビーの体に触れていてくださいよ。」
スピネルもルビーの意見に同調し、瞬間移動に備える。あわててルビーにふれる３人と一匹。
「それじゃ行くわよ、そーれっ。」
ルビーのかけ声とともに、４人と２匹の姿はその場から消え去った。
「う…。俺はどうなったんだ。」
桃矢の意識はゆっくりと浮上しつつあった。体の上に暖かな重みがある。雪兎の重みだ。
桃矢は記憶をたどる。
夢を見ていたのは覚えていた。ここしばらく見ていたのと同じ種類の夢だった。だが今回の夢の内容はそれまでとは大きくかけ離れていた。
自分の中の押さえきれない何かが力を求め、さくらと雪兎、自分の大切な二人に襲いかかろうとする。自分はそれを懸命にこらえている、そんなイメージの夢だった。
最後に覚えているのは、押さえきれなくなった何かが自分を飛び出して、雪兎とさくらを飲み込もうとするイメージだった。
とにかく二人を守らなければいけない。
その思いだけが、ほとんど空っぽになった桃矢の意識を支えていたが、それもだんだん薄れていった。
それからどのくらいの時間が経ったのか判らなかったが、自分の中に何かが戻ってきた、そんな感じがした。
うすぼんやり戻った意識で最初に見たものは、自分を見つめる雪兎の目だった。
雪兎は自分の側にいる。それだけで安心できた。桃矢は安堵の表情をうかべつぶやく。
「…よかった、まだいたな、ゆき。」
そしてもう一度目を閉じた。
意識がはっきりしないまま、桃矢は今の状況に既視感を感じていた。以前にもこんな経験をした様な気がする、そんなことを思っているとベッドの横で衣擦れの音がした。
しばらくして、柔らかく暖かい重みが体にかかる。何とか目を開けるとそこには一糸まとわぬ姿になった雪兎がいた。その姿はどこから見てもすでに女性のものだった。
「…ゆき？」
そう口に出し、正面から雪兎の顔を見る。『きれいだ』素直にそう思えた。
「とーや、大好きだよ。ぼくを受け取って。」
雪兎はいつもとは違う笑みを浮かべながらそう言って、桃矢に体を預けてきた。
そして時が移った。
桃矢は雪兎を感じながら目を開けた。
心配そうにのぞき込む雪兎の顔があった。
それを見つめた桃矢は、自分が何に既視感を感じていたのか突然思い出した。
「夢…そうだ、あの夢と同じだったんだ。」
ここしばらく見ていた夢の中に、同じようなシチュエーションの夢があった。そのときは自分の願望が見せているものだとばかり思っていた。
「夢じゃないよ、とーや。おはよう。」
安心したような、それでいて喜んでいるにしては少し元気がない雪兎の声にかすかな不安を抱いた桃矢は、自分の上にいる雪兎の体をよく見た。
きれいな裸身だった。しかし何か違和感があった。存在感が薄く、抱きしめていないとどこかに消えてしまいそうな雰囲気だった。そう、以前の雪兎と同じように。
「ゆき、おまえまさか、また消えかかっているのか。本体はどうした。」
「大丈夫、まだ消えたりしないよ、とーや。『月』はぼくと切り離されて、さくらちゃんと一緒に戦ってる。向こうも何か大変みたいなんだ。」
「一体何が起こっているんだ。…くっ。」
桃矢はベッドから起きあがろうと身じろぎしたが、体が思うように反応しなかった。
「動かない方がいい。とーやは魔力が暴走して死にかけてたんだよ。」
「魔力って、おまえ、俺に魔力を戻すためにそんなになるまで…。」
「そうだよ。生きるための最低の魔力さえなくしたとーやが助かる可能性を上げるには、ぼくを支えている魔力をとーやに渡せばいいってエリオル君がいったんだ。」
「バカヤロウ、そのせいでお前が消えちまったら何にもならないだろ。待ってろ、すぐに返してやるからな。」
そう言うと桃矢は、自分の中の魔力を雪兎に戻そうと、雪兎をきつく抱きしめた。だが、ほんの少しの魔力でさえ雪兎に流れ込むことはなかった。
「だめ…なのか。」
「そうみたいだね。一方通行みたいだ。でも良かった、どうやらとーやだけでも助かったみたいだし。２人ともだめかもしれなかったんだよ。」
その台詞とともに雪兎の存在がますます薄くなった。
「あ、あれ。安心したら、力が抜けちゃった。もう持たないかもしれない。最後かもしれないからもう一度言うよ。とーや、大好きだよ。ぼくは後悔してないし、幸せだった、ありがとう。」
「最後なんて言うんじゃねえ、ゆき。お前は俺を不幸せにするつもりなのか、自分だけ幸せのまま消えるのなんて許さねえぞ。」
「とーやらしい励まし方だね、でも…ほんとに…時間切れ…かも。」
その時、部屋の中に風が巻き起こった。
「仮の姿よ、消えるな。」
戻ってきたメンバーの中で、真っ先に雪兎の状態に気付いたのは『月』だった。自分の残り少ない魔力を雪兎に移そうとする。
しかしそれを受け入れることもできないほど、雪兎の消滅は進んでいた。
「くっ、遅かったのか。」
戻ってきたのがさくら達だと気付いた桃矢が叫ぶ。
「さくら、ゆきが消えちまう。ゆきにやる魔力はないのか。」
雪兎の魔力の主でもあるさくらにも、雪兎の存在がもう何秒も持たないとわかった。もう魔力を送っても届くまで持たないのも。
その時、不意にさくらは、握りしめていた手の中の結晶が何だったのか思い出した。
『自分の魔力の結晶』
「お兄ちゃん、これを雪兎さんに。」
そう言いつつ、握りしめていたそれを桃矢に投げ渡した。
そこから先は誰の目にも、スローモーションのように感じられた。
ゆっくりとした放物線を描き、桃矢の手に収まる結晶。
それを唇に挟み、口移しで消えかかった雪兎に含ませる桃矢。
雪兎の体内に入ると同時にまばゆい光を放つ結晶。
実際にはほんの数秒のことだったに違いない。だがその場にいたさくらたちには、何倍、いや何十倍の時間にも感じられた。
結晶の放つ光が収まると、そこには元通りの存在感を取り戻した雪兎の姿があった。
「ゆき、どうやら戻ってこれたみたいだな。」
「うん、もう大丈夫みたい。さくらちゃんありがとう。」
微笑み合う桃矢と雪兎。さくらは雪兎に返事をしかかったが、何かに気付くと、小狼の手を引っ張ったまま、捨てぜりふを残して、真っ赤になって部屋から飛び出した。
「お、お兄ちゃんのばか、布団くらいかぶっててよっ。小狼君も見ちゃダメっ。」
「主の兄と仮の姿よ、下着くらいは着けた方がよいと思うぞ。」
『月』がぽつりと洩らしたその言葉が、全てを物語っていた。
「事件の片が付いたら、私はすぐにイギリスに戻るつもりだったのですが、どうやらこれは、困ったことになってしまいましたね。」
事が収まってしばらくして、閉鎖空間から戻ってきたエリオルは、開口一番そう言うと、腕を組んでうなった。
「エリオル君、何が困ったの？」
全裸の兄を見た混乱からようやく立ち直ったさくらがエリオルに尋ねる。
「いえ、事が済んだら『月』と月城雪兎君をもう一度一つに戻そうと思っていたのですが、出来なくなってしまったのですよ。」
「え、それってどういうこと。」
「雪兎君を助けるのに使った、さくらさんの魔力が大き過ぎた様子で、彼は実体を得てしまったみたいですね。私が２人に別れたときのさくらさんの父上のように、並外れて大きな魔力は、実存在を作り出すことも出来るのです。」
ここまで言うと、エリオルは雪兎の方に向き直るとこう告げた。
「月城雪兎君、きみはすでに『月』の仮の姿ではなく、一人の人間なのです。もう、魔力の減少で消えてしまうこともありませんし、年も取りますし、子供だって作れます。」
「それじゃ、ぼくは…。」
「ええ、何の秘密もないただの人間ですよ。」
それを聞いて心底うれしそうな表情になる雪兎。一方さくらは、エリオルの言葉を理解しきっていなかった。
「ねえ、エリオル君、それのどこが困ったことなの？」
「また一人、『いないはずの人間』ができてしまった事がです。さくらさんの父上も昔、そのことで苦労されていますし。さらに困ったことに雪兎君の場合、作り上げた『以前の月城雪兎』とも違う人間になってしまいましたからね。」
「うーん、そう言えばそうだよね。雪兎さん今は女の人だし。」
エリオルは少し難しそうな顔をすると、こう宣言した。
「わかりました、本来あまり良くないことなのですが、こうなった責任の多くは私にあることですし、つじつま合わせだけはして帰りましょう。」
そこまで言うと、早口の英語で闇の鍵の封印を解き、いくつかの呪文をやはり英語で唱えると、すぐに鍵をしまった。
「あれ、エリオル君、今何したの。」
「雪兎君の戸籍を作りました。ほんのお詫びの印ですよ。私に出来るのはこれくらいですね。あとはさくらさんの兄上に任せましょう。」
「お兄ちゃんに、何を任せるの？」
「彼にしかできないことを、ですよ。」
話の流れに口を挟めず呆然としていた桃矢も、事ここにいたってやっと何が起きたのかわかったようだった。
「柊沢…エリオルって名前で良かったんだよな。」
「はい、木之本桃矢さん。いろいろご迷惑をおかけしてしまいまして申し訳なく思っていますよ。」
「２つだけ質問させてくれ。ゆきは本当に人間になったんだな。それと月城雪兎名義の戸籍を作ってもらえたんだな。」
「両方ともＹＥＳですよ。もちろん性別は女性になってます。」
「それだけわかれば問題ないぜ。ありがとうよ。あんたにはいろんな迷惑をかけられてたみたいだけど、そのことだけで全部帳消しにしてもいいくらいだ。」
桃矢はそこまで言うと雪兎の方に向き直って言った。
「こんな衆人環視みたいなところで言うもんじゃ無いとは思うんだか、ここにいるのはみんな身内みたいなものだし、どうしても今言っておきたいことがあるんだ。聞いてくれ、ゆき。」
雪兎の肩を両手で押さえて自分の方を向かせた桃矢は、いつになく神妙な顔で続けた。
「俺と結婚して欲しい。ずっと一番近くにいて欲しいんだ。」
一瞬何を言われたのかわからず呆然とする雪兎。だが次の瞬間真っ赤になってつぶやいた。
「え、えっと、とーや…い、いまの、プロポーズ…って考えていいんだよね…。」「ああ、これ以上にないってくらい直接的なプロポーズのつもりなんだが…。」桃矢がその言葉を言い終わらないうちに、雪兎は桃矢に思い切り抱きついた。
さくらは２人に精一杯の祝福を送っていた。
「おめでとう、雪兎さん、お兄ちゃん。すごく複雑な気持ちではあるんだけど、わたしも思いっきり幸せな気分だよ。」
「よかったな、さくら。よく考えてみるとおれもすごく複雑な気分だけどな。」
居心地の悪そうな小狼がボソッと呟き、部屋の外に出ていこうとした。
「あれ、小狼君どこへ行くの。」
それを見つけたさくらが小狼を引き止めようと声を掛けた。
「ああ、騒ぎも片付いたみたいだしそろそろ家に帰ろうかと。おれ食事の途中だったし。」
「あ、そうだよね。朝わたしがあんな電話を掛けてからずっとだったもんね。ありがとう、その辺まで送るよ。」
さくらと小狼は、歌帆や奈久留にからかい倒されている桃矢達を残して部屋の外に出た。
「咄嗟のことだったとはいえ、さっきのはやっぱり突然すぎたよな。ごめん。」
部屋の外に出たとたん、小狼がいきなり謝った。
一瞬何のことかわからなかったさくらだったが、封印魔法の途中での口づけのことだと思い至り、顔を赤くしながらも、はっきりと言った。
「ううん、わたしはそれでもうれしかったよ。びっくりしたけどね。それにそのおかげで魔法が完成したんだし。わたしもいつかはって思ってたから。」
「でも、女の子って、その、初めてって結構思い入れがあるのかなって。あんなムードも何もない状態だったから。」
「うん、確かにムードはなかったけど、思い出深いって言ったらこれ以上無いくらい思い出には残るとおもう。」
自分の部屋の前にきたさくらは、何かを考える素振りを見せ、ドアノブをつかんだ。
「さくら、自分の部屋に何か用があるのか。おれは廊下で待ってるから。」
「うん、ちょっとだけ。ごめんね。」
しばらくして、突然部屋の中に魔力の気配が広がった。慌てて部屋の中のさくらに無事を確認する小狼。
「さくら、なにがあった。」
「大丈夫だよ、小狼君。準備できたから部屋に入ってきて。」
さくらは、自分の部屋のドアを開け小狼を招き入れた。
「え、こ、これって。」
小狼は思わず絶句した。そこにはケルベロス、『月』、そして１９枚のカードの精達が勢揃いしていた。
「ねえ、小狼君。さっきの続きをここでして欲しいの。」
「なっ！」
驚いて後ずさる小狼。だがさくらの表情は真剣そのものだった。それを見て小狼も真顔になる。
「さくら、一つだけ聞いて良いか、なんでみんなを？」
「あのね、ケロちゃん達やカードさん達の一番はわたしなの。でもわたしの一番は今は小狼君なの。だからわたしの一番の事をみんなに知ってもらいたくて。」
小狼はさくらの目を見つめて言った。
「さくら、おれはこんな事するのは初めてだし、さっきのは無我夢中でほとんど覚えてない。何をしたらいいのかわからないけど、一つだけ確かなのは、おれの一番もさくらだって事だ。」
それを聞いて安心したように、ゆっくり目を閉じるさくら。
そのさくらの軽く開いた唇に、自分の唇を触れさせる小狼。ただ唇が触れ合っている、それだけの口づけだったが、想いは伝わりあっていた。
「なあ『月』、わいな、何でさくらの魔力があんなに強いんかわかるような気がするで。さくらは基本的なところで、信じることが一番大事なんやってよう知っとるんや。」
「ええ、そうねケルベロス。さくらちゃんは本当の意味のカードキャプターね。カードや私たちの心をとらえて離さない。」
「そうやな。けどなんやねんその話し方は、ま、姿におうとるんは間違いあらへんけどな。」
「さくらちゃん、自分のことを『主』って呼ばれるのに慣れないみたいだったから少しずつ変えていこうかなって。それとさっき仮…じゃない雪兎君から溢れた魔力が逆流したせいもあるかもね。」
「ま、みんな変わっていきよるし、それくらいええんとちゃうか。」
カード達の祝福を受けた２人の口づけはもう少しだけ続いた。
一年後
木之本家ダイニングルーム。
木之本一家の３人が座っている。藤隆の肩の辺りには今日も撫子がきていた。
さくらの後ろにはいつものように『月』が控え、横にはナプキンを着けたケロが料理を待ちかまえていた。
キッチンの方に声をかける桃矢。
「おーい、ゆき手伝おうか。」
キッチンの方から、弾んだ明るい声が響いてきた。
「うん、ちょうど今できたから運ぶのだけ手伝ってくれる？。」
「おう。」
キッチンの方から料理を持って現れるエプロン姿の雪兎。桃矢にとって一番愛しい新妻だった。
「うん、おいしそうですね。ゆきとさんは上達が早いからぼくも教え甲斐がありますよ。」
料理のできを見て、雪兎をほめる藤隆。
「撫子さんは意欲はあったのですけど、教えてるこちらが怖くて。」
『あら、藤隆さんそんなことを考えていらっしゃったの。』
怒った振りをしながらも、笑顔を絶やさない撫子。
「わたし、またお家で一番料理が苦手になっちゃうかも。」
笑いながら料理を見つめるさくら。
「そやけど小僧の好きな中華料理だけは上達早いみたいやな。」
「う、そ、そんなこと、ないもん。」
ケロにつっこまれて、言葉を濁すさくら。
そんな『家族』を見ながら心底幸せそうな雪兎。さくらにも撫子にも少しずつ似ている面差しをほころばしていた。
絵に描いたような家族団らんだった。
「そういえばゆきとさん、何か話すことがあるんですか。撫子さんは知っているらしいんですがぼくに全然教えてくれないんですよ。」
はにかみながら、雪兎が告げる。
「はい、できました。２ヶ月だそうです。」
そして上がる祝福の声。